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村上茶(玉露 かりがね、緑茶 和香、雪国紅茶・雪国烏龍茶など)/冨士美園株式会社【村上市】

冨士美園株式会社


北限の茶処(ちゃどころ)といわれる村上市、その歴史は400余年

 

新潟県村上市は、日本で一番北にある、経済的に成り立つお茶の産地です。その歴史は古く1620年までさかのぼります。村上を治めていた藩主の堀直竒(ほりなおより)公が「お茶を村上の産業にできないか」と大年寄役の徳光屋覚左衛門に命じて、宇治や伊勢から集めたお茶の実を蒔(ま)いたことが「村上茶」の始まりといわれています。

 

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明治時代は、世界へ輸出していた村上茶

 

明治元年(1868)創業の冨士美園は、「自園・ 自製・自販」といって、お茶の栽培から製造・販売まで、すべて自分たちの手で行っています。明治時代には緑茶と紅茶を横浜港まで運び、そこからアメリカやロシアなどへ輸出していました。6代目となる飯島剛志(ごうし)さんは、大正時代になって生産が途絶えた紅茶を100年ぶりに復刻しています。

 

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剛志さんは同市の常盤園とで結成した村上茶研究会で、過去に「全国手もみ茶品評会」で一等、「全国手もみ製茶技術競技大会」で最優秀賞を受賞。つまり、味と技で日本一になっています。しかし、全国には毎回一等になる人もおり、上には上がいて剛志さんの目標となっています。

人生には予想もしない転機がある

 

人生お茶一筋の剛志さんに見えますが、実はサラリーマン家庭で生まれ育ちました。本家の冨士美園の跡継ぎがなく、お父さまの久さんが承継することになり、東京で大学進学を考えていた剛志さんは人生のハンドルをキキーッと急回転。そのまま東京のお茶屋へ修行に入り、次に農水省茶業試験場※ で全国の茶業者と机を並べて2年間の研修を受けました。そして、買い集めた製茶の機械とともに村上に戻ります。 

※ 現 国立研究開発法人 農研機構果樹茶業研究部門

 

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冨士美園を継ぐ意思を固めた理由には、「父を助けたい、後継者不足で荒廃が進むふるさとの茶畑を何とかしたい」という思いがありました。

雪国の気候に耐え、おいしくなる品種を求めて

 

戻ってからはお茶づくりに専念する日々が続きます。味や技の追求はもちろんですが、先に新品種を導入して栽培を行っていた常盤園とともに寒冷地の村上に合うお茶を探し求めます。常盤園では最初はハウスで栽培し、その後少しずつ露地に植えて村上の気候になじませました。剛志さんも自身で実証試験を行って、現在では作付面積で、江戸時代から続く在来種に対して5割が新品種となっています。

 

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現在では、村上茶は国内生産量のわずか1%以下。それなのに日本一が出て、紅茶や烏龍茶まで製造している。日本のお茶業界では“奇跡の茶処”として、知らない人はいないそうです。

茶寮カネエイを2019年11月にオープン

 

「村上茶400年」を目の前に、冨士美園は茶寮カネエイをオープンしました。奥さまの渚さん、お茶を愛する社員のみなさんとのチームによる新しいチャレンジです。村上の町屋奥の茶小屋(茶工場)を改装した落ち着いた雰囲気の中で、地元名店のお菓子を一緒に味わいながら、淹れ方や茶器の扱い方も教えてもらえます。

 

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3人の息子さんを抱えながら剛志さんを支える渚さんと一緒に。村上木彫堆朱(ついしゅ)、燕市の玉川堂鎚起銅器(ついきどうき)、柏崎市の県内唯一の耐熱ガラス創作工房クラフト・ユーなどの茶器でお茶をいただけます。
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お茶フェススタッフがいつも感じるのは、日本一になった茶園なのにおごることがなく、「村上茶を守ること、お茶を通じてふるさとの力になること」を1番の矜持(きょうじ)とされているところです。

世界でオンリーワンの風味をめざして

 

村上に戻ってしばらくは、剛志さんは、勉強をしてきた主要産地のレベルに近づけたいと思っていたそうです。しかし、六本木の実力派「Restaurant Ryuzu(レストラン リューズ)」や「TRAIN SUITE 四季島」などに採用されるうちに、「主要産地を見据えながら、村上茶のよいところを引き出せばいいんだ」と意識が変わりました。

冬は雪に覆われて、その分根っこに養分を蓄え、春に芽吹く茶葉をまろやかにする。新潟県民と同じく、たくましく、優しく、味わい深い。そんな魅力ある村上茶を、ぜひお試しください。

 

冨士美園株式会社

 

撮影/朝妻一洋・小池エリ(クリエイティブ コム)

DATA

冨士美園株式会社・茶寮カネエイ

 

所在地/村上市長井町4-19

電話/0254-52-2716

HP/www.fujimien.jp 

ネットショップ/shop.fujimien.jp