〽夏も近づく八十八夜…にお茶を摘まない、それが『佐渡番茶』流
青い海に浮かぶ佐渡が新緑に覆われる頃。全国のお茶農家が心待ちにしていた季節の到来です。しかし、佐渡では茶摘みを始めません。1番茶を見送るのです。なぜ? どうして? JA佐渡お茶倶楽部に所属するチャレンジド立野代表 後賀田一則(ごかだかずのり)さんとお茶巡りをしてきました。
ゴールドラッシュとともに、島内にお茶栽培が普及
まず訪れたのはJA佐渡の製茶工場。歴史を感じる木組みの建物で、製茶シーズンはお茶のよい香りで満ちるそう。味のある機械たちは村上市の冨士美園が使っていたもの。JA佐渡お茶倶楽部に申し出があり、機械会社を通じて運ばれてきました。北限の茶どころといわれる村上と佐渡。こんなところでも仲よくつながっていたのですね。
佐渡のお茶の歴史は古く、江戸時代に京文化とともに入ったと伝わります。江戸幕府300年の財政を支えた金銀山がある佐渡はゴールドラッシュで沸き、ふもとの相川地区は人口5万もの大都市に。鎖国時代に国際貿易都市として賑わった長崎に匹敵する人口でした。嗜好品のお茶も需要が高まり、享保年間(1716~1735)に作付けが急速に進みます。一時は村上と同じほどの茶畑があり、島外にも輸出していました。
『潟端茶』から『吉井茶』へ。しかし、10haが一気に消失…
島内最大の産地は潟端(かたばた)地区。江戸時代は宇治茶の栽培技法を取り入れて発達し、『潟端茶』と呼ばれていました。昭和に入ると吉井農協が職員を静岡県茶業試験場 ※ に派遣し、指導を受けて潟端茶の品種改良などを研究。平行して村上茶の種子を島内に広め、お茶の呼び名も『吉井茶』へと変わりました。
しかし一転!昭和35年(1960)から日本は深刻な米不足に陥り、新潟県も昭和42年より「米100万トン達成運動」を展開します。その先駆けとして30年代末期に茶畑約10haが水田に…。米作中心となった農家は、田植えと重なる八十八夜に初摘みをする余裕がなくなりました。
※現・静岡県農林技術研究所茶業研究センター
一番茶も一緒にほうじるので、香りが高く甘みが強い
結局、お茶を摘めるのは6月から。通常は煎茶に使う新芽と、その下の淡い緑の茎だけを刈り、裁断してから一緒にほうじます。両方のいいとこ取りといいますか、葉っぱだけより、茎だけより、風味が“ふくよか”になる。昭和50年代頃より『佐渡番茶』と呼ばれるようになりましたが、名に番茶とあっても通常の番茶とちょっと違う。現在は瀉端・横山・吉井地区を中心に20軒ほどがJA佐渡お茶倶楽部に所属し、約2ヘクタールの茶畑で年間1.2〜1.4トンを生産しています。さらに半分近くは自家消費になるので、島内や新潟市内の一部でしか入手できない希少なお茶となっています。
「お茶は薬」という考えから、自家用や贈答用に
次は、JA佐渡お茶倶楽部に所属する田中照夫さんの茶畑を訪問。「昔の潟端は、見渡す限り茶畑。それがみんな田んぼに変わりました。うちでは、お茶は健康によい薬だと思っているので、家族や親戚のために採算度外視で作ってきました。あとは物々交換ですね。柿をいただいたら、お茶でお返しする。朝晩飲んで、茶粥にして、熱くても、常温でも、冷やしてもいいし、赤ちゃんも高齢者も飲めるから喜ばれます」と田中さんは言います。
そのまま飲んでも、ビールやビスコッティーでもおいしい
最後に、チャレンジド立野が営むアートサロン「和(やわらぎ)」へ。後賀田さんがコポコポと『佐渡番茶』を淹てくださると香ばしい湯気が立ち上ります。口にふくむと緑茶に近い風味もあって「佐渡ならではのお茶だなぁ」と感じます。最近はお茶フェスから生まれた『佐渡番茶エール』がコラボ先の沼垂ビールで商品化されました。チャレンジド立野が製造販売する『佐渡の米粉ビスコッティ(佐渡番茶)』も人気です。まだ『佐渡番茶』に出会ったことがない方は、どんなかたちでも、ぜひ一度お試しください。
DATA 障がい者就労トレーニングファーム チャレンジド立野
住所/新潟県佐渡市立野333 電話/0259-67-7774 HP/https://tateno-hukusikai.amebaownd.com/ FB/www.facebook.com/challengedtateno/ 新潟迷茶『佐渡番茶エール』/www.ochafes.com/sadobanchayale201211/
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撮影/朝妻一洋・小池エリ(クリエイティブ コム)
【関連情報】
- お茶フェスネットマルシェ/https://ochafes.official.ec/items/40590622
- 「新潟迷茶」とは